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九鬼家の墓所、文化遺産の継承する

御祖御霊departed soul

遠津御祖御霊

■初代・九鬼隆信命

九鬼家始祖。中納言藤原隆家の子孫、中将藤原隆信が四日市奥の佐倉に住んでいたが、南北朝時代中頃。正平元年(北朝貞和二・1346年)に北朝方の仁木義長にせめられ、九木浦へきて、藤原姓を改めて九鬼氏と称し、直ちに築城すると同時に水軍を養成した。 *武士は最終的に源・平・橘・藤原の4つの姓を名乗ったので、その一端かもしれない。(私見:宮崎眞佐男)

■二代・九鬼隆治命

隆信の長男。年少のころ吉野の南朝に仕え、宮内少輔に補されていた。父の隆信が老境に入ったので九鬼浦への帰路に難に遭い、平生崇拝している、北野天満宮の霊験より難を逃れる。翁が突然現れ、南方の七曜星の輝き目標の進むよう諭しあり無事九鬼に帰る。是より、家紋も左三巴であったが、神恩を記念し、七曜星を表紋、巴を裏紋として用い、城の西北に天満宮を創建し、五人張りの弓と箭を奉納した。

■三代・九鬼隆房命

幼少の頃は南朝に仕え、刑部少輔に補されていたが、南北朝合体のあと九木浦に帰った。隆房には二人の男子があって、長男の隆長も南朝に仕えて宮内大輔に補されていたが九木浦に返って四代を継ぐ。次男の隆良は波切に進出して築城し七島を領した。これが九鬼家の第一分家の波切九鬼家となる。

■四代・九鬼隆長命

四代隆長も、弟の隆良の波切進出に際しては、総力をあげて後援した。

■五代・九鬼光長命

豪勇で智略に溢れていた。永禄年中(1429年〜1440年)尾張三河の海賊が、熊野灘の沿岸にまで来襲し略奪し、人々が家業を棄て山中にこもったとき、光長は軍船数隻をひきいて攻めたて、その海賊どもを滅ぼした。

■宮崎家開祖・光信命

五代光長の次男。嘉吉年中(1441年〜1444年)に九鬼浦で生まれる。六代を継いだ九鬼政長の弟。射術を能くし、長じて新宮に移り、宮崎長門守定範の娘と結婚し、約束により長男貞信に宮崎家を嗣がす。しかし、新宮での宮崎家の衰退にて、貞信を連れて九鬼浦に戻り、兄政長を助けた。 宮崎家の祖は熊野別当・初代長快に始まり長範−長兼−湛快−行範−範智−湛増−行快−範命−湛政−琳快−快命−湛真−尋快−定湛−静快を経て正湛となり、正湛は宮崎豊後と称した(中和一由遺稿集)。 しかし、長快−長範−行範−行遍−覚遍−覚増−定増−定有−定遍−宮崎家の説もある (阪本 敏行.2005、『熊野三山と熊野別当』、清文堂出版。宮家 準.1992、『熊野修験』、吉川弘文館)。


代々御祖之御霊

■初代・宮崎貞信命

光信の長男で、新宮で生まれた幼名・三郎。勇力ありて、強弓を引く、射術にも長じていた。熊野別当からの血筋に源為義の十子、行家が嗣いでいることから、源氏の木瓜を真ん中にして隅切角で囲んだ隅切木瓜になったものと思われる。

■二代・宮崎行信命

幼名を三郎左衛門と称す。新宮城主・堀内安房守・氏善が天正十一年(1583年)尾鷲攻めの時、九鬼家九代光隆に援軍を頼んだとき、光隆を助けて戦に加わり、勝利した。 *この時点では、新宮別当・宮崎家と何らかの関わりが続いていた可能性が高いと思われる。

■三代・宮崎慶八郎命(ヨシワカツオ・けいはちろう)

この代から世の中は平和になり、農林業を生業とする。

■四代・宮崎吉右衛門命(ウマシミギモリカド:きちうえもん)

梅安と号す。明暦元年(1655年)五月五日没す。

■五代・宮崎半左衛門命

幼名・治平と称し、長じて号を虚安と称す。天和三年(1683年)三月二六日没す。

■六代・宮崎吉右衛門命(ヨシミギモリカド)

寛文五年(1665年)に生まれ、幼名を次郎と称す。祖父の名を襲名し、吉右衛門と改める。号は傑心、正徳年間(1704年〜1715年)、庄屋に推挙され34年間つとめる。元文元年(1736年)九月十七日没す。

■七代・宮崎半之蒸命(ナカノスケ:はんのじょう)

元禄三年(1690年)に生まれ、号を道雲と称す。宝暦四年(1754年)十一月十四日没す。

■八代・宮崎佐吉命(スケヨシ)

半之蒸に二女さんの娘婿。幼名市松と称し、長じて蘭渓と号す。安永六年(1777年)正月十九日没す。


宮ア家ゆかりの代々の御霊

九鬼本家18代九鬼右膳隆禮は一人娘しか出来なかったため、宮崎閑斎に嫁がせ、その子供の盛隆が九鬼本家を継ぎました。盛隆の弟は幼名を軍治郎、その後5代目宮ア嘉助を襲名しましたが、後年中和一由を名乗りました。中和一由の名前の由来は歌「天地(あめつち)も万の物も一つにて和ぎたる中に我は由るなり」の中から中和一由と名付けたそうです。その意味の「大自然は一つであり、万物は和によって存在し、我が身、我が精神もそれに由る」の意志を継いで、ここには中和一由に関係した人の希望を尊重し、御霊を祀る意志を持った人々を総て祀ることとしました。

■九代・宮崎嘉助命(ヨシスケ:かすけ)

宝暦四年(1754年)に生まれ、幼名・宇三郎。操獄と号した。十五代九鬼右膳秀隆の娘・奈加を娶る。文政五年(1822)六月十二日没す。行年六十九歳 *兄に初次郎がおり、長じて和右衛門と改名。こちらが九代に当たるが、その子十代・弁助も和右衛門を襲名した。その孫、十一代由助で途絶えるため、十代・弁助の弟を十一代ョ直として、(十代)・佐吉が養子としてもらいうけた。そのため、九代及び十代は仮として括弧した。昔はこのように途絶えた家を、兄弟が継いだ例が多かったのかも知れない。平成の今上天皇から、次期あるいは次次期天皇の皇位継承が男子に限られるため、平成の時代の皇太子・浩宮が途絶え、秋篠宮の息子に継承され、浩宮家が皇位継承家系から末梢されていく運命を、予感させる昔からの家系存続制度を偲ばせる。

●奈加比女命

十五代九鬼右膳秀隆の娘、(九代)・嘉助命の妻

■十代・宮崎佐吉命

嘉助の三男として寛政元年(1789年)に生まれる。二兄が早逝。幼名玄次郎の後、祖父の名を襲名、佐吉(二代)と称す。文化十四年(1817年)八月十二日没す。

■十一代・宮崎ョ直命

文化十一年(1814年)に生まれる。佐吉に子が無いため、上記宮崎家本家より養子としてもらう。(九代)・嘉助の兄・初次郎の子・十代弁助の弟、幼名を常松と称し、長じて家督相続とともに父祖の嘉助(三代)を襲名した。晩年には名をョ直(よりなお)と改めた。村政に竭(つく)し、村民から慈父と稱賛(しょうさん)された。安政四年(1857年)九月五日没す。
*この後、嘉助を嗣ぐ例が多いので、本家・分家の統合の名称として嘉助を名乗ったのかも知れない。あるいは嘉助の人徳が大きかったのかも知れない。

●太宇比女命

十一代・ョ直の妻

■十二代・閑斎命

ョ直の次男、弘化元年(1844年)十二月二十七日、九鬼村43番地に生まれる。幼名を國治郎、家督相続と共に嘉助(三代?四代の記載も)を襲名。明治十年(1877年)、九鬼村ほか二ヶ村の戸長となり、明治二十一年市町村制実施の際、初代九鬼村村長となる。 以後、数度村長。農林業だけでなく、百貨商、漁業も初め、漁船を持ち、定置網などを行い、宮崎家のみが富まず、富を村民にも与えるため漁業共同組合を興し、村民に株を与え、株に対し配当金を与え、村民全体の利を計った。 漁業共同組合は第二次大戦後の総ての漁港に作られた漁協とは異なり、今で言う株式会社で、戦後は九鬼共同組合(ともどうくみあい)となり、九木神社社領(三思が丘を含む)・真巌寺寺領・九鬼診療所の所有権を持っていた。 大正十四年(1925年)二月十九日没す。行年八十二歳。

●八重比女命

嘉永四年(1851年)十一月一日九鬼本家十八代九鬼右膳隆禮の一人娘として生まれる。子供に九鬼家を継がす約束で、閑斎の妻となった。そのため長子・盛隆は九鬼本家に養子として入り、二十代として九鬼家本家を継ぐ。夫寛斎の百貨商を中和一由の次女美保の夫、冨三に継がすため、一時、戸籍上美保の義母となる。昭和四年(1929年)十一月十二日没す。行年七十九歳。

●咲枝比女命

中和一由の妻。長島町・町長西山源次郎の長女として、明治十八年(1885年)十一月二十八日に生まれる。母すまは船津、伊藤善左衛門の娘。昭和九年(1934年)二月一日に没す。行年四十九歳。

■信道命

中和一由の長男として明治四十年(1907年)十月二十二日に生まれる。生来優秀で将来が楽しみな子供として成長したが、肺結核が原因で、昭和四年(1929年)八月八日に没す。行年二十三歳。

■宗一命

中和一由の次男として明治四十二年(1909年)十二月二十一日に生まれる。兄・信道と同様で生来優秀な兄弟 として九鬼村でも有名であったが、昭和二年(1927年)十月二十三日没す。行年十八歳。

●千穂比女命

中和一由の三女として大正三年(1914年)八月十一日に生まれる。昭和十一年(1926年)五月十二日に没す。行年十三歳。

■正也命

中和一由の四男として大正十一年(1922年)七月九日に生まれる。結核性髄膜炎と思われる症状で昭和二十四年(1949年)五月二十七日没す。行年二十八歳。

●妙比女命

中和一由の長女として、明治三十九年(1906年)四月五日に生まれる。北海道大学で医学博士を修得し、鳥羽市で医院を開いた久野英一氏に嫁ぐ。昭和十九年(1944年)五月十九日没す

■十三代・中和一由命

閑斎の次男として、明治十一年(1878年)一月二十三日に生まれる。幼名軍治郎。 明治三十九年(1906年)父寛斎が隠居し、宮崎嘉助を襲名。明治三十四年(1901年)に漁業共同組合長に選ばれ、大正七年(1918) 定置網を改良して宮崎式定置網を考案し、大正八年(1919年)三月に村長、昭和二年(1927年)には三井物産石油販売三重県代理店を経営した。昭和六年(1931年)に漁業共同組合に疑獄事件が起こり、事件収容のため再度組合長に就任。先祖からの農業に加え、父寛斎の始めた家業百貨商、石油業など公私共に充実し、傍ら学問を好み最後まで思想、哲学を探究す。家訓として「人生要義」を残し、三男道生が「中和一由遺稿集」を残す。 昭和四十四年(1969年)十月二十四日没す。行年九十三歳。 *兄、九鬼盛隆は九鬼本家を継ぎ、古神道に関心を持ち「断易精蘊」を著し、日本における五行易の第一人者とも称される

●千代比女命

鳥取県出身・旧性斉藤千代。昭和十一年(1936年)十月二十八日、中和一由の兄、九鬼盛隆氏の推薦で中和一 由の再婚相手として、結婚。太平洋戦争後には三重県婦人会・副会長として、婦人参政権などの運動にも尽力し、三重県最初の婦人県会議員・岩下かね氏などの擁立に協力した。お茶の師範として九鬼村の女性を教育する。昭和五十七年(1982年)九月九日没す。行年九十五歳

■冨三命

明治四十三年(1910年)三月二十六日伊勢・安井家にて生まれる。中和一由が九鬼・宮崎家第二分家として閑斎祖父以来の百貨商を継がせるため、安井冨三を次女美保の夫として、昭和十年(1935年)七月三日、養子として迎え入れる。九鬼・宮嘉百貨店が東南海地震の津波で品物の大半を流され、打撃を受ける。九鬼村のブリ漁も不振となり、新天地を求め、昭和三十二年(1957年)鳥羽に三重県初の米国式スーパーマーケットを開店し、発展を遂げた。晩年は川柳を好み、孫玉津佐知子が川柳遺   稿集「地獄でも ウィンクすれば 鬼笑う」を残す。平成元年(1989年)一月十八日没す。行年八十歳。(九鬼・宮崎家第二分家の祖)

■和新命

冨三の次男として昭和十五年(1940年)九月十九日に生まれる。帝国車輌に入社後、合併した東急車輌に移り、本社社長室勤務。その後、鴻池運輸に移った。祖父・中和一由が「和」を「新」たにする意味で和新(カズヨシ)と名付けた。映画が好きで、特に黒沢明監督の映画を好んだ。亡くなる前に、「自分の遺産で、家族・親族総てが“和”を持って集まれる場所を作って欲しい。」との遺言で志摩市磯部町迫間243番地の2に“和新荘(ワシンソウ)”を作り、NPO法人和新会の開祖となる。平成六年十二月八日没す。行年五十五歳

■辰巳命

俗名塩谷辰巳。大正三年六月一八日に生まれる。昭和13年(1938)5月8日、中和一由四女・寿美と結婚。塩谷組社長の後、三重県北牟婁郡海山町長を昭和37年(1962年)9月25日〜昭和61年(1986年)9月24日、六期24年間勤める。平成五年(1993)五月二十六日没す。 行年八十歳

■健介命

俗名田中健介。昭和八年十月十日、亀山市関町古厩(ふるまや)の田中家にて生まれる。宮崎冨三長女・静の夫。日本海汽船に勤め、長く機関長職に就き、世界各国の港に行った。平成九年六月十日没す。行年六十四歳

●美保比女命

中和一由の次女として、明治四十五年一月一日(1912)に生まれる。中和一由が九鬼・宮崎家第二分家を作り、祖父寛斎の百貨商などを継がそうとして、一時、戸籍上寛斎の妻 ・十八代九鬼右膳隆禮の一人娘八重の義子とする。乳母日傘で育った独特の性格で、物怖じせず、夫・冨三 の経営する物産店を経営し、英語も上手く話せないのに、外国からの友人も多く、葬儀後、外国人から弔問 の手紙がくるほどであった。平成十六年(2004)十一月三十日没す。行年九十三歳

■十四代・道生命

中和一由の三男として大正六年十月十三日に生まれる。弘前大学から岡山大学へ移り、文学部長を勤め、その後國學院大學に移る。主要著書に「新井白石序論」「新井白石の研究」「新訂 西洋紀聞」「シーボルトと鎖国・開国日本」などがある。平成十七年四月一日没す。行年八十七歳

●通比女命

旧性竹内通(ゆき)、弘前の名家、安政三年(1856年)開業の竹内醸造に生まれる。昭和二十二年(1947年)六月二十二日道生と結婚。茶道の師匠としても名高い地位を確立した。平成十九年九月五日魂上 行年八十七歳

和新会代々御祖之御霊

■閑斎命

ョ直の次男、弘化元年(1844年)十二月二十七日、九鬼村43番地に生まれる。幼名を國治郎、家督相続と共に嘉助(三代?四代の記載も)を襲名。明治十年(1877年)、九鬼村ほか二ヶ村の戸長となり、明治二十一年市町村制実施の際、初代九鬼村村長となる。
以後、数度村長。農林業だけでなく、百貨商、漁業も初め、漁船を持ち、定置網などを行い、宮崎家のみが富まず、富を村民にも与えるため漁業共同組合を興し、村民に株を与え、株に対し配当金を与え、村民全体の利を計った。 漁業共同組合は第二次大戦後の総ての漁港に作られた漁協とは異なり、今で言う株式会社で、戦後は九鬼共同組合(ともどうくみあい)となり、九木神社社領(三思が丘を含む)・真巌寺寺領・九鬼診療所の所有権を持っていた。 和新の父・冨三が寛斎命の始めた百貨商を継いだため始祖とした。

■八重比女命

嘉永四年(1851年)十一月一日九鬼本家十八代九鬼右膳隆禮の一人娘として生まれる。子供に九鬼家を継がす約束で、閑斎の妻となった。そのため長子・盛隆は九鬼本家に養子として入り、二十代として九鬼家本家を継ぐ。夫寛斎の百貨商を中和一由の次女美保の夫、冨三に継がすため、一時、戸籍上美保の義母となる。

■中和一由命

閑斎の次男として、明治十一年(1878年)一月二十三日に生まれる。幼名軍治郎。 明治三十九年(1906年)父寛斎が隠居し、宮崎嘉助を襲名。明治三十四年(1901年)に漁業共同組合長に選ばれ、大正七年(1918) 定置網を改良して宮崎式定置網を考案し、大正八年(1919年)三月に村長、昭和二年(1927年)には三井物産石油販売三重県代理店を経営した。昭和六年(1931年)に漁業共同組合に疑獄事件が起こり、事件収容のため再度組合長に就任。先祖からの農業に加え、父寛斎の始めた家業百貨商、石油業など公私共に充実し、傍ら学問を好み最後まで思想、哲学を探究す。家訓として「人生要義」を残した。

■正也命

中和一由の四男として大正十一年(1922年)七月九日に生まれる。 結核性髄膜炎と思われる症状で昭和二十四年(1949年)五月二十七日没す。冨三の漁業共同組合会員権の祖。

■冨三命

明治四十三年(1910年)三月二十六日伊勢・安井家にて生まれる。 中和一由が九鬼・宮崎家第二分家として閑斎祖父以来の百貨商を継がせるため、安井冨三を次女美保の夫として、昭和十年(1935年)七月三日、養子として迎え入れる。九鬼・宮嘉百貨店が東南海地震の津波で品物の大半を流され、打撃を受ける。九鬼村のブリ漁も不振となり、新天地を求め、昭和三十二年(1957年)鳥羽に三重県初の米国式スーパーマーケットを開店し、発展を遂げた。晩年は川柳を好み、孫玉津佐知子が川柳遺稿集「地獄でも ウィンクすれば 鬼笑う」を残す。

■美保比女命

中和一由の次女として、明治四十五年一月一日(1912)に生まれる。 中和一由が九鬼・宮崎家第二分家を作り、祖父寛斎の百貨商などを継がそうとして、一時、戸籍上寛斎の妻・十八代九鬼右膳隆禮の一人娘八重の義子とする。乳母日傘で育った独特の性格で、物怖じせず、夫・冨三の経営する物産店を経営し、英語も上手く話せないのに、外国からの友人も多く、葬儀後、外国人から弔問の手紙がくるほどであった。

■和新命

冨三の次男として昭和十五年(1940年)九月十九日に生まれる。
帝国車輌に入社後、合併した東急車輌に移り、本社社長室勤務。その後、鴻池運輸に移った。
祖父・中和一由が「和」を「新」たにする意味で和新(カズヨシ)と名付けた。映画が好きで、特に黒沢明監督の映画を好んだ。 亡くなる前に、「自分の遺産で、家族・親族総てが“和”を持って集まれる場所を作って欲しい。」との遺言で志摩市磯部町迫間243番地の2に“和新荘(ワシンソウ)”を作り、NPO法人和新会の開祖となる。 平成六年十二月八日没す。行年五十五歳

■才治命

俗名・更谷才治。明治二十九年(1896)八月二日、熊野市金山町に生まれる。17歳から97歳死ぬまで宮ア嘉助(中和一由)に仕えた。平成五年(1993)六月二十四日没す。行年九十七歳。

■志げ比女命

俗名・更谷志げ。明治三十年(1897)二月二日、熊野市二木島町に生まれる。 大正十四年二月、更谷才治と婚姻。昭和三十一年(1956)一月十二日没す。行年五十八歳

■政友命

俗名・更谷政友、更谷才治夫婦に子供が無いため、養子として熊野市二木島町から迎える。親・更谷才治・志げ同様、宮崎家に没するまで仕える。平成九年五月十四日没す。行年八十三歳。

■文子比女命

俗名・更谷文子。大正九年(1920)九月十六日、熊野市二木島町に生まれる。昭和十六年、更谷政友と婚姻。夫・政友の死後、平成十八年まで、宮崎家に没するまで仕える。平成二十三年十二月二十五日没す。行年九十一歳。


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